「写真を残すこと 」 親が旅立つとか、遺影写真とか、古いアルバムとか、

2021年も残りわずか。

 

父がこの世を旅立って、3ヶ月が過ぎました。

 

急なことで状況を理解できないまま、葬儀の手配をしなくてはいけなかったり

そんな中でも、代替のカメラマンさんを手配しなければならなかったり

心身ともに非常に辛い状態でした。

 

代わってくださったカメラマンの方々、日程変更に心よく応じて下さったお客様、本当にありがとうございました。

撮影できなかったお客様には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

楽しみにしていた大切な撮影ができず、本当に申し訳ありませんでした。

 

1人で仕事をしていると、こんな事もあるわけで

たくさんの方に迷惑をかけてしまうこと、身の置き方に、いろいろ考える日々でもありました。

 

それなりの年齢になり、いつかは親の介護とか・・・などと思ってはいたものの、こんなに早く別れがくるとは思いもよらず

それはもう、とてつもなくしんどい2ヶ月でした。

とはいえ、やらなければならない事も多過ぎて、悲しむ暇もないまま、只々慌ただしく過ぎた2ヶ月でもありました。

 

過ぎてしまえば、至極当然のことであり、誰もが辿る道。

家族は今日も、日常を生きています。

すべての法事や事務的な作業を終え、一息がつき、日常を過ごしつつある今、

写真を通して思うことがありました。

 

父が亡くなる1ヶ月半前に、家族写真を撮りました。 

 

妹が一時帰国し、久々に家族全員揃ったので「撮ろう」と思い立ってのことでした。

何でもない日の、ただ家族全員が並んだ写真。

ワーワー言いながら、その1ポーズに何回もシャッターをきって、父も珍しく笑っていて、我ながら「いい家族写真だな」なんて思っていたのですが

 

結局、それが父の遺影写真となりました。

 

何枚かある中から、母が遺影用に選んだ父の表情は、とても穏やかに優しく微笑むものでした。

 

父を失ったことで、リアルに「あの時、写真を撮って良かった」と心から思えました。

悲しいかな・・・そういうリアルがないと、実感の度合いも全く違うわけで・・・

 

娘である私が、父の「遺影写真となる写真」を撮れたこと、

その写真を見て、父の妹たちが「とてもいい表情だね」と言っていたこと、

四十九日が過ぎるまで、母が「いつもこの表情に癒されてるさー」と言ってくれたこと、

 

すべてが、私の救いとなっています。

祖母は、我が子が先に逝ってしまったことで、憔悴しきっていました。

 

少し落ち着いた頃、20代の頃の父のアルバムを祖母に見せました。

そこには、曽祖母や若かりし頃の祖母、父の妹たち、私の従兄弟の写真もあり、

叔母たちは「懐かしい!」と昔話で盛り上がったり、祖母は「この頃の息子が、どんな風に過ごしていたか知らなかったから、見れて嬉しい。ありがとう」と、愛おしそうに写真を撫でながら、何度も見返していました。

 

古いアルバムめくり・・・なんて歌がありますが、本当にそんな感じの時間でした。

父の葬儀の日、親友のおじいちゃんが亡くなりました。

亡くなる数ヶ月前に家族写真を撮ったのですが、その頃にはすっかり元気もなくなっていたので、2年程前に撮影させてもらった〈元気な頃の笑顔のおじい〉の写真を遺影にすることにしたそうです。

 

親友は「昔、家族写真は撮っといた方がいいよ!って言ってたよね。ホント、あの時撮っといて良かった!いい写真を撮ってくれてありがとうね」と言ってくれました。

写真を見て、思い出して悲しくなることもあるけど、それ以上に「こんな素敵な人だったよね」と思えるものが残せたら、少しは救われるだろうかと思ったりもしました。

 

父が残した「過去の写真」も、祖母の気持ちを癒してくれました。

やっぱり、写真を残すことって大切なんだと、心から思ったのです。

 

写真嫌いな人も「撮ろうよ!」って機会があるなら、嫌がらずに1枚くらいは素敵な表情で撮られてほしいです。

 

いつか、残される家族のためにも。

この思いは、10年前から変わっていません。

最後に、過去に書いたブログから転載します。

 

---以下、2011年頃に書いたブログです。---

 

死は必ず、誰にでも訪れます。

それは、いつかなんてわからないし、いつだっておかしくないでしょう。

 

今や、生前葬を始め、自分の望む葬儀が当たり前となり、

メモリアルフォトやビデオなど、故人を偲ぶ演出などがなされてます。

 

あなたは、自分の『遺影写真』がありますか?

 

縁起でもない!と言われそうですが、そこにふれることはタブーでしょうか?

『遺影写真』は、単に故人を弔うためのものではなく、その人の人生そのもの。

云わば、『生涯写真』であって欲しいと思います。

 

以前、「すべてキレイに処理して、遺影写真を作ってほしい」と持ち込まれた写真がありました。

それは携帯で撮影された、画質の良くないものでした。

 

その方は、写真が嫌いで、何があっても撮られることを拒んでいたそうです。

その結果、残された写真は、このただ一枚。

ベッドの上で、鼻に管を通され、意識もほとんどない状態のもの。

 

修正はいくらでも出来ます。

しかし、解像度の小さい写真は、引き伸ばせば荒くなりますし、

あれこれ修正され、ボヤけたその写真は、故人とは違うはずです。

元気な頃の面影はありません。

 

何より、その写真を見て、とても悲しい気持ちになりました。

 

 

そもそも、『遺影写真』はなくてはならないのか?

ご家族が必要ないというのであれば「なくても良い」と私は思います。(そんな方もなかなかいないとは思いますが)

 

では、何のために『遺影写真』が必要なのか?

葬儀のためですか?仏壇に飾るためですか?

・・・

それだけではないと思います。

 

《いつでも、元気な頃の故人に会うため》

そうあって欲しいのです。

 

 

実家の仏壇にあるおじぃの写真は、私が知ってる優しい笑顔のおじぃ。

亡くなった時は、とても悲しかったけど

何年か経って、その写真を見るたびに、「おじぃらしいよね」と、元気だった頃の記憶が甦ります。

 

 

スナップ写真から切り抜いて引き伸ばしてボヤけた写真。

喪服に着せかえられたその写真は、その人らしいでしょうか?

それなら、着せ替えなんてせず、ありのままのスナップ写真を飾ってもいいと思います。

 

 

『写真を撮る』のは、何も、お年を召された方だけに限ったことではありません。

若い方でも、自分のお気に入りの一枚を残しておくのは良いと思います。

 

一年に一度とは言いません。

五年に一度、十年に一度でも、自分の「肖像写真」を残してみるのはどうでしょう?

 

自分のためだけではなく、いつか残される家族のためにも・・・

 

---END---